茶道をたしなむ経営者が増えている。日々の業務で多忙を極めるかたわら、貴重な時間を割いて教室に通う経営トップたち。彼らをひきつけてやまない茶道の魅力とは何か。今回から数回にわたり、茶道の稽古に励む経営者たちをインタビューする。

 ポーラ代表取締役社長、及川美紀氏の茶道歴は今年で5年目になる。流派は裏千家茶道だ。

 稽古を始めたきっかけは2018年、海外事業を担当していたときのこと。「外国の方へのおもてなしの話をしているとき、そもそも自分の立ち居振る舞いが日本人として正しいのか、美しい所作が身に付いているのか、と思い当たったのです」(及川氏)。

 実は及川氏は、20代で茶道を経験していた。「埼玉の事業所にいたとき、組織リーダーだった50代の女性のグランドオーナーが茶道をたしなんでいました。彼女が3時間の営業会議のうち1時間半を使い、先生を招いて点前の講習を行ってくれたのです」。しかし当時の及川氏には、茶道を理解する余裕がなかった。「正直言って、会議でお茶など点てていないで売上目標の話をしたいと思っていました」。お菓子が美味しいと同僚と話したことはあっても、茶道の精神を感じ取るにはいたらなかったのだ。だがグランドオーナーは当時、「これからのリーダーシップには茶道が必要。人の心を導くリーダーは、自分たちの中に『心の余白』を持たないといけない」と常々口にしていたという。

 それから25年を経た2018年になって、及川氏の脳裏にグランドオーナーの言葉が蘇ってきた。「ポーラの販売員の仕事は、お客様の心に寄り添うことです。彼女たちの成長を促すには、育成する立場であるリーダーは茶道を通じて多面的な視点を養わなければいけないという意味だったのだ、とやっと分かりました」。同じ頃、旧友がたまたま自宅を訪ねてきた。着物姿で、「近所で茶道のイベントがあった」と言う。その友人の先生を紹介してもらい入門したのが、及川氏が49歳で茶道を再開するきっかけになった。

稽古で「ととのう」感覚を味わう

 茶道の魅力について及川氏は、「抹茶が美味しいこともありますが、お稽古でリフレッシュし、デトックスできることです」と語る。現在では多忙を極める社長業のかたわら、月2回を目標に稽古に通う。「茶室で朝の空気を浴びながらお稽古をすると、心がすっきりします。サウナで言われる『ととのう』感覚に似ていますね。床の間の掛け軸の説明を聞き、その日の自分の気持ちにぴったり合っていると『やられた』と感じることもあります」(及川氏)。

 茶道では季節によって使う道具が変わる。例えば茶碗なら、桜や紅葉などの絵柄で季節を表すだけでなく、夏は浅く、冬は深いものを使うことがあり、形によって扱い方が変わってくる。さらに点前には、「真(しん)、行(ぎょう)、草(そう)」という格がある。それぞれフォーマル、セミフォーマル、アンフォーマルというイメージだ。「草」の点前では道具を右手で扱うが、「真」の点前では左手ということもある。点前と道具の組み合わせを数えると、所作の数は何百種類にも及ぶだろう。茶道が複雑で習得が難しいと言われるゆえんである。

 だが、それも及川氏にとっては興味深い。「季節が変わり道具が変わると、臨機応変な対応が求められる。『境界線のない多様性』に近い、可変的な部分が面白いのです」。これはビジネスの世界とも似ている、と及川氏は指摘する。「ビジネスにはセオリーがありますが、時代とともに社会や人の意識は変わります。定石や過去の成功体験に頼らない、状況に合わせた対応が必要になります」(及川氏)。

オフィスの社長室に茶碗や茶筅などの道具を置いている
オフィスの社長室に茶碗や茶筅などの道具を置いている

所作の決まりは主客の「共通言語」

 及川氏の師匠は、よく茶会を企画する。「先生がいつもおっしゃるのは、『お茶会に来てくださるお客様の気持ちを考えることが一番大事』ということ。『お客様がどんな心持ちでいらっしゃるのか、どのようにお茶会を楽しんでどんな気持ちで帰っていただくか。それにあわせて道具を選び、しつらえを考ええる。その時間を心から楽しむのです』と。これを聞いて、本当のおもてなしとはこういうことなのだ、と分かった気がしました」(及川氏)。

 茶道には、点前の所作をはじめ畳の歩き方、礼の仕方など細かい決まり事がある。「いくつかの型が決まっていて共通ルールがあるのが、よいのかもしれません」と及川氏は指摘する。茶席の席主である亭主はその共通言語のもとに客と茶会を楽しむことができ、一方で自分らしいもてなしを提供することができる。

 修行の段階を示す言葉に「守破離(しゅはり)」というものがある。守は「基本の型を忠実に守り身につける」、破は「型を破り発展させる」、離は「基本から離れて個性を発揮する」という意味だ。まず型を学び、その後自分らしい独創性を発揮していくということかもしれない。こうしたことを長い時間をかけて学ぶことが、リスキリングにもつながるのだと筆者も感じる。

 及川氏は、「お稽古をしていてよかったのは、教えていただく機会があることです。私くらいの年齢になると、誰かに注意されたり叱られたりすることが少なくなりますから」と語る。「お点前がうまくいかず、何をやってもダメなときもあります。でも『できない自分』と素直に向き合える時間を持てるのが、今はとても大事だと感じます」。50代半ばになってもこうした経験ができるのは、自己研鑽のために必要だと及川氏は考えている。

退職などの挨拶に訪れた社員に自ら抹茶を点ててふるまうことも
退職などの挨拶に訪れた社員に自ら抹茶を点ててふるまうことも

人それぞれに楽しめる茶道を

 「幸運なことに先生が素晴らしい方で、社中の皆さんも気持ちのいい方ばかり」と語る及川氏。生徒の装いも様々だ。着物を着た女性、袴をはいた男性、洋装に稽古着を付ける人、帛紗をはさむベルトを締めるだけの人など、思い思いの格好で稽古をする。「茶道の楽しみ方も、人それぞれだと感じます」(及川氏)。

 茶道人口が減りつつある現在、もっと多くの人、特にビジネスパーソンに茶道を知ってもらうにはどうしたらよいか。「茶道を気軽に体験できる機会を増やすとよいかもしれません。甘味処などで抹茶を飲んだことがある人は多いと思いますが、自分でお茶を点てることはあまりないと思います」(及川氏)。ルールも大事だが、自由に参加できる場を作ることも必要だ。テーブル式の立礼を取り入れ、洋装でも点前ができる稽古場を増やすのもよいだろう。

 ビジネスパーソンがグローバルに活躍するには、まず日本を知る必要がある。茶道を学ぶことで、日本人の考え方や感じ方のバックグラウンドを確認できるのではないか、と及川氏は語る。

 「茶道は堅苦しいように見えますが、おおらかな部分もあります。冒頭でお話ししたグランドオーナーに「言葉ではなく体で理解するのよ』と言われましたが、その意味が分かるようになってきました。自分にとって茶道は、『終わりのない旅』。ありのままの自分と向き合いながら、お稽古を続けていきたいと思います」(及川氏)。

お菓子と抹茶を勧める及川氏(※稽古ではなく就業時間のため、指輪は着用のまま点茶を行っている)
お菓子と抹茶を勧める及川氏(※稽古ではなく就業時間のため、指輪は着用のまま点茶を行っている)

ポーラ代表取締役社長
及川美紀(おいかわ・みき)氏
1991年、ポーラ化粧品本舗(現ポーラ)入社。埼玉エリアマネージャー、商品企画部長を経て、2012年に執行役員、2014年に取締役就任。2020年1月より現職。誰もが自分の可能性を拓くことができる社会をミッションに、パーパス経営、ダイバーシティ経営を牽引。著書に『幸せなチームが結果を出す』(共著、日経BP)